「人新世」の脅威と新しい「人間の安全保障」のアプローチとは
2024年7月30日
「人間の安全保障(human security)」という言葉がある。安全保障といえば、いつの時代でも主権国家を単位とする国際政治システムのなかでは国家本位の安全保障(=「国家安全保障(state security)」)のアプローチが中核にあり、その必要性が揺るぐことはない。しかし、同時に、厳しい境遇に置かれた人間一人ひとりにも着目し、その生存・生活・尊厳に対する広範かつ深刻な脅威から人々を守り、人々が持つ豊かな潜在力や可能性を実現するため、「保護」と「エンパワーメント」という主に二つの戦略を通じて自立した個人やコミュニティの安全保障を促すアプローチとして生まれたのが「人間の安全保障」の理念と政策であった。これは、国連開発計画(UNDP)の1994年版『人間開発報告書』の中で提唱されて以降、さまざまな形で実践されて今日に至っている。
国連創設70周年となった2015年9月の国連サミットで、加盟国の全会一致で「持続可能な開発目標(SDGs)」が合意され、2030年の世界を展望し、まさに持続可能で「誰一人取り残されない」、そんな未来を実現することを合言葉に、国際社会全体の共通の羅針盤が打ち立てられる今日、「人間」にフォーカスを当てた開発論や安全保障論は特に目新しくもないように思われるかもしれない。しかし、ここに至るまでの30年余りの間には、安全保障をめぐる国家の利益と人間の利益との相克、人間の安全保障政策の実践にあたってのジレンマ、さらには、2020年代となって、この概念が提起された1990年代や2000年代初頭とは質的に大きく異なる脅威の顕在化を受けて、いわば「新世代の人間の安全保障」とは何かを検討する政策アップデートの必要性の高まり、といった動きも見出すことができる。
いまや人間の安全保障に対する脅威が質的に変化したと言っても、2003年にコフィ・アナン国連事務総長(当時)からの諮問を受けてまとめられた『安全保障の今日的課題―人間の安全保障委員会報告書(原題は、Human Security Now: Protecting and Empowering People)』で共同議長となった緒方貞子・元国連難民高等弁務官とケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのアマルティア・セン学長が打ち出した「人間にとってかけがえのない生の中枢部分を守り、全ての人の自由と可能性を実現する」という人間の安全保障の本質は、いまも決して色あせるものではない。
個人的な話になるが、私は研究者としての手ほどきを上智大学教授時代の緒方貞子氏に受け、同先生の背中を仰ぎつつ人間の安全保障を研究と実務に携わるなか、2020年代に入ったUNDPの新しいイニシアティブで進められた『2022年特別報告書 人新世の脅威と人間の安全保障~さらなる連帯で立ち向かうとき(原題は、New Threats to Human Security in the Anthropocene Demanding Greater Solidarity)』の作成に深く関与する光栄を得た(同報告書の日本語全訳 版は私の監訳で2022年12月に日経BP社より出版)。それは、緒方・セン報告書のレガシーを引き継ぎながらも「新世代の人間の安全保障」とは何かを模索する、知的にも政策的観点からもきわめて刺激的なプロセスであった。
「新世代の人間の安全保障」のエッセンスとは
2020年に世界的な大流行(パンデミック)となった新型コロナ感染症の拡大を国連総会の場で「世界の人々の命・生活・尊厳、すなわち人間の安全保障に対する危機」であると指摘し、「誰一人取り残されない」との考えを指導理念として立ち向かう重要性を強調したのは日本の菅義偉総理(当時)であった(2020年9月26日、第75回国連総会一般討論演説)。同総理は、その演説で、人間の安全保障の理念に立脚し、ユニバーサル・ヘルス・カバレッジの達成に向け、「誰の健康も取り残さない」という目標を掲げることの意義を訴え、さらに、「新たな時代の人間の安全保障の考え方に立って、様々な危機を乗り越え、SDGs達成をはじめとした地球規模の課題への取組を加速する。そのために、私は、世界の英知を集め、議論を深めていくことを提案いたします」と述べた。こうして新しい時代の新しい脅威への国際社会の対応を一過性のものとせず、人間の安全保障のアプローチの政策的アップデートをも視野に入れた知的取り組みがスタートすることになった。
この総理の表明を受けてUNDPは日本政府の協力の下、2021年5月、人間の安全保障に関する特別報告書を作成するためのハイレベル諮問パネルの設置を発表し、武見敬三参議院議員(当時。現厚生労働大臣)とラウラ・チンチージャ元コスタリカ大統領が共同議長となって、2022年2月の報告書のリリースまで議論が重ねられた。UNDP内では人間開発報告書室が事務局となり、このハイレベル諮問パネルを運営するとともに、世界で活躍する関係分野の第一線の研究者や専門家にバックグラウンドぺーパーを委嘱し、オンラインでの意見交換なども重ねて議論の精緻化を行っていった。私は、バックグラウンドペーパー執筆者の一人となる一方、国内ではハイレベル諮問パネルをリードする武見共同議長に必要なインプットをするために外務省が立ち上げた勉強会の座長として、このプロセスに参画した。
UNDPが、かつて1994年の報告書で打ち出した人間の安全保障の概念にいま再び着目しようとしたきっかけは、同機関が長年にわたり継続的に観測している世界各国の人間開発指数(HDI)の数値の異変にあった。HDIは国内総生産(GDP)のデータのみに頼らず、各国で人々が健康で長生きでき、教育も受けられ、人間らしい水準の生活を送れるかどうかといった指標も加味した状況までも計測するものである。そのHDIが、近年では多くの国でかつてないほどの高い水準を記録してきているにもかかわらず、すでにコロナ禍に突入する以前から、HDIの中低位国はもちろん最高位国も含め、7人にせいぜい1人しか自分が安全な状況にあると感じられておらず、残りの6人以上はむしろ「不安全感(human insecurity=人間の安全保障の喪失感)」を抱いているというパラドックスが見出されたことにあった。HDIが低いほど、こうした不安全感を持つ人々が多いことは容易に想像されるだろう。その後、コロナ禍によって各国のHDI自体も劇的に下落することになるわけだが、あわせて、私たちの性急な開発やウェルビーイングの追求が気候変動や感染症の頻発から生物多様性の喪失、さらには人々の間の分断や格差を生み出していることに着眼し、新しい報告書を通じて検討することになったのである。そこで取り上げられたキーワードが「人新世」。すなわち、「人類の時代」という意味の言葉で、現在がすでに完新世の次となる、人類が地球や生態系に甚大な影響を及ぼす地質時代に入っているとの認識の下、デジタル技術の負の側面、暴力的な紛争、水平的な不平等(女性・子供、黒人、性的マイノリティ、先住民、移民、高齢者等)、ヘルスケアシステムへの新たな課題などを論じることとなった。
特別報告書では、以前の緒方・セン報告書で提案された「保護」と「エンパワーメント」の二つの戦略に「連帯」という第三の戦略を加えることを提唱した。それは、これまでのように苦境にある個人やそのコミュニティの安全の確保に加え、いまや地球上のすべての人々の間の相互連関性や人間と地球との相互依存の関係までをも体系的に考慮し、まさに「連帯」を通じて対応していくことが求められる時代になっているとの強い問題意識を反映している。
人間の安全保障アプローチの新旧対比
「新世代の人間の安全保障とは何か」という問いに最もストレートに答えるため、バックグラウンドペーパーを担当した一人として私が提案したことは、「旧世代」のアプローチとの新旧対照表を作ってみることだった。そこでは、当然、両者の間の継続性と変化が見出された。
継続性として私が真っ先に確認したことは、「人間にとってかけがえのない生の中枢部分を守り、全ての人の自由と可能性を実現する」という緒方・セン報告書が強調する人間の安全保障の本質的な問題意識であり、また、2012年の人間の安全保障に関する国連総会決議(A/RES/66/290)にあるように、人々の生存、生計、尊厳に対する広範かつ分野横断的な課題に、縦割りをなくし、「保護とエンパワーメントのために、人間中心、包括的、文脈即応、予防志向」で取り組むという基本姿勢であった。
他方で、冷戦終結とともに世界各地で内戦が多発をし、グローバル化で国境を越えるヒト、モノ、カネ、情報、データがの動きが拡大した1990年代から2000年代初めの時代の脅威には、普遍的なものはあっても、やはり開発途上国の人々に集中しがちであった。しかしながら今日の脅威は、気候変動にせよ、感染症の拡大にせよ、デジタル技術の脅威にせよ、グローバル・サウスにとどまらず、先進国も含む世界全体の人々を巻き込み、さらには地球自体やその生態系への負荷も高まるという状況に変質している。コロナ禍から私たちが得るべき教訓は、自分の安全保障が他者の安全保障と密接に結びついていて、誰もが安全でなければ誰も安全になれないという現実であった。そして、こうした「共通の安全保障」の観点から脅威に立ち向かうには、私たち一人ひとりが人間の安全保障の政策によって保護され、エンパワーされる客体となるだけではなく、自らが能動的な「行為主体」となり、すべてのステークホルダー(利害関係者)と手を取り合い、国内、国際の両面で力を合わせて現状を打開していくことが求められる。そうした意識や行動や役割の転換も、新たな時代の人間の安全保障にとっては不可欠な要素となる。本特別報告書で「連帯」が強調されている理由はまさにそこにある。
さらなる連帯で「人新世」の脅威に立ち向かうとき
人新世の脅威に立ち向かう新世代の人間の安全保障のアプローチはまだ緒についたばかりであって、特別報告書でも現時点では課題の列挙と分析が多く、具体的なアクションの例までは十分にカバーできていない。そうしたなかでも、コロナ禍にあって、ワクチンがいわば「グローバルな公共財」となり、COVAXファシリティといった低所得国にもワクチンを配分する仕組みが作られたように、「グローバル・ガバナンス」の萌芽となる制度構築の動きも見られている。
グテーレス国連事務総長は2021年9月に公表した『私たちの共通の課題(Our Common Agenda)』において、前年の国連創設75周年の際に加盟国間で合意された12分野のコミットメント(いずれもSDGsに沿い、その加速化に資するもの)を踏まえ、その前進のために国際社会が連帯して取り組むことを提案しているが、そうした動きは人新世の脅威に立ち向かう人間の安全保障の努力と大きく重なるものである。とりわけ今回の特別報告書は、安全保障の対象について「人間」か「国家」かの二項対立を超克し、私たち人間が責任ある「行為主体」となり、「人間開発」と「人間の安全保障」とを両立させ、さらに人々が地球との共生をし、持続可能な平和と繁栄とウェルビーイングの実現に向かって行うべき活動の手引きとなっている。
現実の世界にあって、私たちは、本特別報告書が公表された同じ月の下旬にロシアによるウクライナへの軍事侵攻が発生し、原子力施設が砲撃され、核兵器の使用まで取り沙汰されるなど、人間、とりわけ一部の強権的な政治指導者たちの愚かさや浅はかさによって、世界全体が悲劇と混迷のどん底に突き落とされるという挑戦に直面した。その後も地政学的な対立は世界各地で進み、国内政治の分断も重なって気候変動対策などの足踏みが長く続くなか、グテーレス事務総長が「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰化の時代が到来した」と警告を発するまで事態は深刻の度を増している。しかし、こうした危機の時代だからこそ、人類が自らの破局につながる道を選ぶことのないように、新たな時代の人間の安全保障への取組にしっかりと向き合うことが強く求められいる。
国連では、本年9月、グテーレス事務総長が前述の『私たちの共通の課題』で提唱した「未来サミット(Summit of the Future)」が開催され、「持続可能な開発と開発のための資金調達」「国際の平和と安全」「科学技術イノベーションとデジタル協力」「若者および将来世代」「グローバル・ガバナンスの変革」の5つの項目からなる行動志向の「未来のための協定(Pact for the Future)」が取りまとめられることになっている。私は、このプロセスは、国連本来の役割である集団安全保障の理念と実践を大きく転換するものであるべきと考えている。国連が、「国際の平和と安全の維持」を主要な目的に置いて集団安全保障機構として出発したのは、先の世界大戦の経験から「将来の世代を救う」という観点で、主に国家が、そしてその国の人々が他国からの侵略によって戦争の惨害を経験することを抑止し、世界が一丸となって対処するという問題意識からだった。もはや20世紀の遺物となったはずの侵略事態が今日でも発生していることはいかにも嘆かわしいが、地球規模・人類単位で進む「人新世」の脅威の高まりに対し、国連の加盟国にいま求められているのは「地球と人間の平和と安全の維持」をもスコープに入れた新しい次元の集団安全保障のシステムを打ち立てていくことである。今回刷新をした人間の安全保障のアプローチは、こうした新次元の集団安全保障システムの礎になるものとして私は期待している。
星野俊也 ESG-IREC共同代表、国連システム監査官、元国連日本政府代表部大使。
本稿は、個人の見解であり、所属するいかなる組織・団体の意見を代表するものではないことをお断りいたします。